いつになっても試行錯誤と学びの毎日

とある教育コーディネーターが学校でやってきた実践と失敗の数々

「伴走って難しい」と改めて思わされた本の紹介

1/27(金)の”しくじり探究セミナー”を企画しながら、こんな本に出会いました。

職員室にあるミニ図書コーナーにあったので、「まさに!!」と思って立ち読みしたらハマってしまったので、Kindleで購入しました。改めて授業のあり方を考えさせられます。

 

著者の畑村先生自身、大学で教鞭を振るわれており、その時の失敗(実験で死にかけたそうですが…)をもとに、「失敗学=創造的に生きるための哲学」として定義されています。

自分の人生の糧にし、むしろ失敗したことを分析し、その失敗で得た学びをよりクリエイティブに生きる方向へ転換しようという非常に前向きな考え方です。

 

しくじり探究セミナーは、他校の方々に「うちと同じしくじりをして欲しくない」という思いと、しくじりをしっかりシェアしてレガシーとして残すという2つの目的で企画しましたが、近いような…遠いような…

 

学校現場こそナレッジマネジメント

この本の良いところは、失敗の記述のフォーマットが示されているところです(第三章 失敗と上手に付き合う)。

始末書や顛末書のフォーマットではありません。失敗を次に(よりクリエイティブに)活かそうとするためにどのように残していけば良いかということがわかるというところです。

なぜ失敗したのかを分析する視点、後世に語り継ぐための記述の方法です。

学校現場では、さまざまな文書を残しますが、「ナレッジマネジメント」という視点では弱さがあります。過去に取り組んだ研究の紀要は残っていますが、実践には生かされていないことがほとんどで、個々の教員が持っている知識や技術、知恵が個々の教員にしか保有しおらず、チームとしての知識や技術、知恵が共有されないわけです。

研究に取り組んだという実績とその研究費で購入した書籍や備品だけは残り、新人教員や異動した教員には引き継がれにくい体制になっています。

 

この点ももしかしたら教員研修のネタ、あるいは教育現場へアドバイスする際のネタになるかもしれませんね。

 

「授業のあり方」をもう一度考えるべきだと感じた箇所

さて、最も興味深いところは、「教授方法に応用している」部分です(これも第三章に書かれています)。

畑村先生は「解答を最短で出す効率的な教育方法」という言葉でこれまでの教授方法を否定しています。これまでは、課題の設定や完成品のサンプルを提示し、学生がその真似をするという「解答を最短で出す効率的な教育方法」であったのに対し、今では、あえて細かい課題設定を行わず、学生が失敗と分析を繰り返す中で、プロジェクトを進めるために必要な知識やノウハウを体験的に学ぶように授業設計を行なったというのです。

「失敗を経験し、体験的知識を学ぶことは、学生が大きく成功する貴重な機会です」

 

探究学習をやっていても、うまくいくことなんてありません。

伴走をしていても、綺麗に着地するのは稀で、ほとんど足首をグギッとやってしまいます。

探究学習によって生まれたプロジェクトは、成功や失敗はあまり価値がなく、プロジェクト全体を走った先に、どれだけそのプロジェクトを振り返り(分析し)、自分の糧にするかという点が学校教育の中で「探究」を扱う意味だと考えています。

 

 

 

と思っていますが、それだけでは難しいものです。

 

これは「明らかにそれは変だろう…」と思うことを生徒が伴走者であるあなたに向かって言ってきたという状況の時、あなたは何を言いますか?ということが問われているのだということです。

「それは明らかに間違っている。」と解答を最短で出す効率的な教育方法をとるのか。それとも「おもしろいね、やってみよう!」と、あえて失敗させて体験的知識を獲得しやすい状況を作り出すのか。

 

 

あえて失敗させるのか、あえて成功させるのか

また一方で、「小さな成功体験」ということも大事だとも言われます。

失敗ではなく、小さな成功体験を積み重ねることで、自己肯定感、自己有用感が高まり、自信をつけ物事に前向きになることをねらいにすることもあります。

この考えでいけば、「あ…このままいけば失敗しそうだな…」と心の中で思った時に、前もって仕掛けていけば、うまくいくように仕向けることだって可能です。

 

例えば小学校では「新聞記事を作ろう!」という活動をすることが多いですが、この時新聞のレイアウトを全く学んだことがない子供達がゼロから新聞記事を書くということをするでしょうか。

多くの場合、教員が成果物のサンプルとして、新聞のレイアウトを提示し、子供たちは一定の理解を示しながらその型(フォーマット)通りに新聞記事を作るでしょう。

これは体験的知識を獲得していないのでしょうか。

 

仮にゼロから新聞記事を作って、新聞記者から「こうやって新聞記事は作るんだよ」と修正されたとしたら、きっと子供達からは、「いや、だったら最初から教えてくれよ!」と文句を言うに違いありません。

 

やっぱり基礎学力も重要じゃない?

どうやらあえて失敗を経験させ、その失敗から学びを掬い上げることが重要な時期と、しっかり知識や技術を貯め、できることを増やす時期があるような気がします。

大学生くらいになると、失敗から学ばせるスタイルもあっているのかもしれません。あるいは、偉人たちが通ってきた失敗を追体験させるというのもアリでしょう。

エジソンが何百万回も失敗し、最終的に「竹」に辿り着いたことは知識としては知っている人も多いでしょうが、その何百万回の実験を同じようにさせるのは意味があるとは思えません。それよりは、竹の次にフィラメントとして優れている素材はなんだと思うか?などの課題を出して、エジソンの試行錯誤の逆の形で試行錯誤させる方が効果的な気もします。

小学生や中学生はまだやはり知識として提供することも大事だと思います。この時期は小さな成功体験を積み重ねることも大事ですから。

 

問題は「高校」です。高校は、義務教育ではありませんが、探究の時間は大学の研究にも近い内容です。

「ねらい」がすべてだよ、と言われるとそれまでなのですが、成功するように大人が裏で調整し、生徒が解答を最短で出す効率的な伴走をするのか、それとも明らかに失敗すると分かっていても、あえて失敗を体験させる伴走をするのか、その塩梅はとても難しいです。

 

課題解決といいながら、明らかに課題解決しないだろうと思う取り組みをしているのにあえて失敗させるというのは課題解決??なのでしょうか。

大人たち自身も生徒たちの探究活動にいい意味で巻き込まれた場合、同じプロジェクトメンバーとして課題解決に全力を出したいところですが、一方で生徒の学びが失われる可能性があるということも頭の片隅に置いておかなければなりません。

めちゃめちゃ立ち位置が難しいですね。

 

そうはいっても、、最後に「宇宙兄弟」南波六太氏のセリフと「るろうに剣心」比古清十郎氏のーセリフを述べて終わろうと思います。

 

南波六太「本気でやった場合に限るよ。本気の失敗には価値がある。」(宇宙兄弟11巻)

比古清十郎「手取り足取りで教えられた技は身につかない。一度喰らってそこから学び取った技こそ、いざって時に役に立つ」(るろうに剣心43話)

 

ということで、私も失敗失敗の日々から少しでも学びを掬っていきたいと思います。

それではおのおのぬかりなく。