いつになっても試行錯誤と学びの毎日

とある教育コーディネーターが学校でやってきた実践と失敗の数々

面倒見のいい学校は、良い学校といえるのだろうか

2014年、私は大学院生でしたが、その頃に出た書籍「大学選びより100倍大切なこと」(著者:筒井美紀)を読みました。結構前ですね…

というのも、総合的な探究の時間の組み立てを考えている中で、1年生の進路選択の思考プロセスを考えたかったためです。

例えば「進路についてしっかり考えなさい」と言われ、「はい、○○に就きたいです」と答えられたらOK!なのかどうか、もっと探究した方が良いのか、どんなことを探究すべきなのか、ということを考えあぐねておりました。

そんな前提で、たまたま手に取った本がこの本だったわけですが、今から9年前の作品で、「探究」の概念がバッチリ書かれていたのがとても興味深かったです。特に、大学生に対する考え方(私は大学生を見ているわけではなく、高校生を見ているので異なりますが)が、どんぴしゃり!

 

例えば…

・全然発言しない学生、それは読解力(も大事だけど)ではなく漢字がわからないからではないか(「ボキャ貧」という造語を作られています)
・「調べ学習」の域を出ない大学での研究
・授業で大事なポイントを赤チョークで示してもらいたい学生(「ラーニング・プア」という造語を作られています)
・自学自習の時間、読書の時間が長い学生は、「より前進的な理解」を行っている

原文のままではなく、少し抽象的に書いているところもありますが、高校でも同じ現状を目の当たりにする光景です。

 

メモしない生徒たち

先日、発表会を行い、質疑応答の時にメモをしない生徒がいました。

「なんで書かないの?」と聞くと、「覚えています」とのこと。

「じゃあ、なんて言われたか言ってみて?」と聞くと答えられない。

『板書されたことをノートに写す』という行動はできても、『自分が大切だなと思ったことをノートに書く』という行為ができないのだろうなと思いました。また、自分の考えを自由に言語化することにも課題があると感じました。

もちろんこちらの授業の雰囲気作りで、「大切だと思った時はメモしようね」などと言っていなかったのもあるかもしれません。

また、常にワークシートを渡し、書くという習慣になっていれば、「ワークシートがない=書かないものだ」という思考に至ったのかもしれません。

が、自分で考えて行動するという癖がついていなかったとも言えます。

 

学習時間が短い生徒たち

学習時間が短いのも気になります。本書にもありましたが、より前進的な理解を行っている学生は、自学自習の時間や読書の時間がそうではない学生と比べても長いことがわかっています。

より前進的な理解というのは、抽象的な概念を具体化したり(難解な言葉をわかりやすく置き換えたり、あるいはその逆もしかり)、興味関心のあることから自ら問いを立てて、調査したり、自らの知的好奇心に基づいて学びたいという姿勢だったりします。

その意味で、うちの生徒の学習時間は短い…

「忙しい」という理由もありますが、好奇心を揺さぶる授業ができていないのかもしれないとも思います。

「テーマは議論である」

本書では、この小見出しがついて模擬授業についての説明されていましたが、QFTのような本質的な課題を打ち出した授業の実践が本当に求められているのかもしれません。

(一方で、そうした授業がしたくても時間が足りない、などの問題も示唆されていました)

 

高校魅力化の視点で考える

しばしば地域の学校は個別に対応できる、面倒見のいい学校が多いと言われます。

確かに、マンモス学校だと名前を覚えられない可能性も多いでしょうし、先生も見切れないということがあるでしょう。小規模校だとその点、名前は覚えられるし、補習なども手厚いです。

しかし、面倒見のいい学校は、本当に良い学校といえるのでしょうか。

わかりやすく赤チョークで「ここが大事だよ!」「ここテストに出るよ!」とする面倒見の良さは、広大なオーシャンを泳ぐために必要な体力やスキル、気概を育てていると言えるのでしょうか。

 

ゲームではわかりにくさは致命的ではあります。何をしたらいいのかがわからないと、コントローラーから手をはなします。

 

しかし、授業ではわかりにくさが大切なこともあります。

わかりにくいが故に、頭の中で反芻し、人と対話し理解を深めるということもあり得ます(もちろん意図もなくわかりにくくするのはダメでしょうし、体罰はもってのほかです)

また、「綿を飾るって何?錦だったらわかるけど?」というような、手厳しい指導も時には必要なのかもしれません。

 

今、日本では、千本ノックのような機会、失敗する機会、そういった機会が社会に許容されているとはあまり思えません。だからこそ、失敗が許される学校で失敗し、恥をかき、オーシャンを泳げる力が身につくのかもしれません。

 

この時、「知識偏重型授業 VS 探究型授業」という二項対立は意味がなく、本当に身につけてほしいリテラシーとは何かを「○○力」などという言葉で濁さずに想像できることで、どんな授業、どんなプログラム、どんな家庭学習をしてほしいのかを考える必要があるでしょう。

 

同じ面倒見のいい学校でも、「誰もが卒業できますよ!」というサービスの面倒見の良さではなく、「誰もが海を泳げるくらい逞しいですよ!」といえるような仕組みや授業で面倒見が良い学校がいいですね。

 

===

と、いいつつ、自分がやっている取り組みが、プールの中を泳ぐためのものか、それともオーシャンを泳ぐためのものか、わからなくなることがあります。

そういった時に、「それプールじゃない?」「いや、オーシャンになってるね」と確認できるように、孤独(ロンリネス)であっては行けないのだろうなと思いました。

 

ということで、おのおのぬかりなく。