2011年3月11日、私はインドネシアのスマトラ島にあるパダンという町にいました。
スマトラ島パダンは、その数年前に起きたスマトラ島沖地震の津波の被害にあった町です。復興は続いていましたが、ちょうど”その時”、スマトラ島沖地震で孤児になった孤児院におりました。
「おい、見てみろ!」と孤児院のTVでNHKが映し出され、日本の映像がありました。
それから3年後、私は大船渡・陸前高田市にて復興支援事業のスタッフとして行きました。大型バスに乗って、語り部の方のガイドで陸前高田を回りました。
「ここで曲がってください」とガイドさんが言いますが、そこには何もありません。
おそらく信号機があり、おそらく道があった場所を曲がってくださいというのです。
そこは微かに建物を再建しようとする工事車両があるだけでした。
自分に何ができるんだろう
と思いました。
チェーンソーが動かせるわけでもない、家を立てることができるわけでもない、食べ物を作ることができるわけでもない、人々を癒すことができるわけでもない…
教育という分野で何ができるのだろう
そういう時期でした。
前職で復興教育支援事業のスタッフや担当をしたいと思ったのは、”教育”という分野でしかできない復興支援を考えたいと思ったからです。
”教育”という分野は、改めて平和な上に成り立つということを改めて理解できました。
最近は、学校に行かなくてもいいのではないかという論説もありますが、子供達が日々元気に学校に行けるという状態は、すごい状態なのです。
もちろん学校に行かなくても知識の習得はできるでしょう。
そのような教育業界ですが、それでもなお私が学校にこだわっているのは、こういった背景があります。
学校は、地域にとっての避難所である。
リアルな意味でも、学校は避難所であって、地域にとってもとても大切な存在です。
そんな避難所である学校が、行きたくない場所、先生や子供達が行きたくない場所になるのは心苦しいものです。
だからこそ、学校を避難所になるように、学校に行きたくなるような場所として存在できるようにサポートしていきたいと考えています。
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少ししんみりとしたつぶやきになりました。
でもこうして原点に返ってみるのは大切なことですね。
明日からもまたがんばっていきましょう。
それではおのおのぬかりなく。